→ 日本人に知らされなかった歴史。死への大脱走(オーストラリア・カウラ事件)
の続きです。
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当時、日本国民の背後にあったのは軍国教育で
個より集団、権威の力を容認する文化を持ち続けてきました。
戦陣訓(せんじんくん)
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戦陣訓とは、戦陣での訓戒のこと。
軍人としてとるべき行動規範を示した文書で
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節が有名。
第八 名を惜しむ
恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ。
脱走をすることに賛成か反対か?
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捕虜となった日本人兵は、
ここから脱走をすることに賛成か反対か?を多数決で決めることにします。
それは、小さく切ったトイレットペーパーに
「X(生)、〇(死)」の多数決無記名投票で決められました。
結果、80%という圧倒的多数をもって暴動決行可決。
脱走することに賛成したのです。
日本人捕虜たちが手製の野球バットや食事用ナイフを手に、
まるで死に場所を求めるかのように脱走をしたのです。
その中で声のでかい奴がいて、お前らそれでも日本人かと言われたら、反対することができなくなったわけだね みんな。帝国軍人かお前らそれでもと言われたら、私は帝国軍人じゃないと言えないよね。私は命が惜しいなんて言えないもん。(テレメンタリー2014 カウラ捕虜収容所 暴動70周年)
カウラ収容所 ブロードウェイ
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カウラ収容所は町の北東部約3キロに位置し、ほぼ円形。
これを十字に走る道 (幅広く縦に割って走る通路「ブロードウェイ」)がありました。
ブロードウェイに侵入した一番大きなグループ約600名。ここで67名が死亡したり瀕死の状態で身を横たえていた。(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)
ここで南忠男も銃で撃たれ自決します。
現在のブロードウェイと監視塔
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溝に入り動けなくなり、びゅんびゅん弾が飛んでくるわけです。みんながそれに入って。やっぱり生きたいという気持ちがあります。(テレメンタリー2014 カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)
それぞれ200~300人のグループが4箇所から有刺鉄線へ暴走します。
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この方面に今井さんは突撃ラッパとともに真っ先に飛び出しました。
柵を超えてなぜ俺が打たれなかったかというと最初は威嚇射撃だったから。いったん死にそこなうとなかなかそんなことできない。やっぱり生きられれば生きたいんだよね。(テレメンタリー2014 カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)
日本人捕虜1104人が集団脱走し、虐殺されました。
日本側死者 277人 うち自決者31人
オーストラリア側死者 4人
Epitaphs of a false name: 40 years silence since Cowra Breakoutより
なんとか脱走できた日本兵たちは・・・
誰一人として民間人を傷つけなかったそうです。
ワウグーラクリーク(Waugoola Creek)
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「奇妙なものです。それまでは死ぬことだけしか考えられませんでした。それ以外は頭になかったのです。でも農家が見えたとき、死ぬことを忘れてしまいました。そのときに頭にあったのは、腹がすいたということだけだったのです。」この捕虜たちは、焼きたてのスコーンと紅茶をご馳走してもらった。(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)
ワウグーラクリークには、
スコーンと紅茶をふるまったウェアー夫人が住んでいた“ローズデール”があります。
カウラ日本人戦争墓地
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誰も手入れをしてくれなかった戦争直後
荒れていた元敵の日本人墓地にカウラの退役軍人会(RSL)カウラ支部の会員が、
お墓の手入れをはじめました。
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このことを知った日本政府は1964年、現在の日本人墓地を整備します。
すぐ隣には、オーストラリア兵士のお墓。
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南忠男 ここに眠る。
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カウラの道は、桜の植樹が続いています。
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1978年カウラの財界人の提唱で日本庭園オープン
「回遊式庭園」
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日本を代表する造園家として海外でも広く活躍した中島健が手がけます。
守護石と影向石の 石の形と位置があまりにも奇妙だったので「神がカウラの人々の意思に呼応して、ここに授けたと考えるより外にない」と感じた。
(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)
カウラ日本庭園と捕虜収容所跡を結ぶ一本の道は、
桜アベニュー (Sakura Avenue)と呼ばれ、
カウラの桜は9月ごろが見ごろで、桜祭りというお祭りが毎年開催されます。
カウラの平和の鐘
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カウラはオーストラリアにおいて世界平和の中心を歩んでいるんです。もし私たちが歩みを止めてしまったら歴史から何も学ばなかったことになる。(カウラ ビル・ウエスト市長) (テレメンタリー2014 カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)
この町が日本とつながりがあるのはいいことですね。ずっと共有できる歴史を与えてくれます。大切な財産ですね。(カウラ高校生) (テレメンタリー2014 カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)
さいごに
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カウラに到着すると、日本人の私に町の人は「Hi!」と老いも若きも誰もが声を掛けてくるのです。会う人ほとんど全員!車に乗ってるおじさんもクラクション鳴らしてにこやかに挨拶してくる!(笑)
偶然であった家族連れのおばあさんから、孫が日本語を勉強しています。聞いてあげてください(笑)とそのおばあさんが流暢な日本語で親しみを持って話しかけてくるのです。
テレメンタリー2014 カウラ捕虜収容所 暴動70周年で答えていた高校生や市長のように、カウラ事件を教訓にして、ここから始まったと言える日豪親善、異国文化の理解や教育がなされ、これからの未来をしっかり後世に伝え続けていると思いました。
でも、九死に一生を得た命。死なないでほしかった。そして、生きていれば、またもっと違う形で友好を深めていたんじゃないかと考えてしまいます。
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この暴動の翌年
1945年(昭和20年)8月15日 昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送により、
日本の降伏が国民に公表され、
終戦
1946年3月2日
生き残った日本人捕虜たちは、大海丸(だいかいまる)にて帰還。
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