オーストラリア カウラ事件

死への大脱走

シドニーから西へ320Kmの所にある 小さな田舎町カウラ

ここに日本人に知らされなかった悲劇の歴史があります。

 

カウラ事件は戦争中の捕虜の反乱事件としてあまりにも異常だった為、
戦後長いあいだ日本、オーストラリア双方で極秘にされてきました。


第二次世界大戦中の1944年8月5日午前2時。

南忠男が吹き鳴らす「突撃ラッパ」を合図に、日本人捕虜1104人が集団脱走し虐殺されました。

日本側死者 277人 うち自決者31人 
オーストラリア側死者 4人

「デテクルテキハ ミナミナ コロセ」

南忠男は突撃ラッパを吹きながら死に向かって突っ走り、弾丸に倒れ、のどをかききって自らの生命を絶ちました。「南の国で忠義を尽くす男の意味」と言われた南忠男は偽名。当時、捕虜になること自体が不名誉なことであり日本にいる家族や親族に迷惑をかけてしまうという考えから、捕虜のほとんどが皆、偽名を名乗ったそうです。

南忠男(本名:豊島一)

オーストラリア軍に捕らえられた日本人捕虜の第1号
零式艦上戦闘戦(ゼロ戦)パイロット

 

「このパイロットはファーストクラスだ。」被弾し飛行不能となりながらも、
すみやかに機体を操作して無事に不時着する技術に優れていた。
カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか (文春文庫)
零戦研究家ジョン・ハスレットや研究会員の話より)

「英語が非常に上手でハンサムで、服装が常に整っていて、きれいに髭をそり、
髪を整え、礼儀正しく頭がよく実に好感のもてる男でいい友人だった。」
カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか (文春文庫)ネグレヴィッチの話より)

捕虜(太平洋戦争最大の激戦地ニューギニア。
ニューギニアを中心とした日本兵捕虜が送り込まれた。)は、汽車で運ばれカウラに到着しました。

カウラ駅


■ 戦争捕虜収容所跡地 ■
カウラ収容所は町の北東部約3キロに位置し、ほぼ円形。これを十字に走る道 (幅広く縦に割って走る通路「ブロードウェイ」。それを横切るやや幅狭い道「ノー・マンズ・ランド」。)コンパウンドという名で4つに区切られ、鉄条網で囲まれていました。Aコンパウンド:イタリア人捕虜、Bコンパウンド:日本人捕虜(下士官、兵)、Cコンパウンド:イタリア人捕虜、Dコンパウンドは、中で3つに区切られ、D1:朝鮮人、台湾人捕虜、D2:旧イタリア人捕虜、D3:日本人捕虜(将校)。

現在は、野生化されたスイカが転がり、コンクリートの跡地が少し見える草原地帯。

日本兵の多くは、残酷な殺され方をされたり拷問にかけられると広く信じていたそうです。

でも、

オーストラリア政府は、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約にのっとって捕虜生活は予想に反して、

収容所での暮らしは快適だった!?


過酷労働はなく、食べ物はありあまるほどあり、日本人の為に米や魚まで出されました。「収容内のパドックの杭打ちや、運搬用道路の補修作業などで、1日八時間の労働、これに対しては、1日七ペンス半という賃金。収容所内に設けられた売店から、さまざまな日用品、煙草、菓子などを買う」カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか (文春文庫)より

カウラの生活は極楽です。(生存者 村上輝夫さん)

1日の仕事がマージャンと花札。
(テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)

一番人気のあった娯楽は野球、革靴を野球クラブに作り直すのに何時間もかけた。
タバコの空き箱で花札、薪を削って麻雀のパイが作られた。拾い集めた廃材を使いギターをはじめとして定期的にあった芝居(「父帰る」「大尉の娘」が収容所内で演じられたの衣装や小道具も作られた。(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)

召集前は大工、大工職人、楽器製造職人だったという捕虜もおり、かれらの指導で作ったさまざまな道具類、そして演芸会や音楽会などに使用されたギター、マンドリンなどの楽器は、見事なほどの出来ばえだったという。さらに、兵捕虜たちは暴動後ヘイ収容所に移されたのち、国際赤十字の依頼を受けて玩具や民芸品などを作る、木工製作のグループ活動さえもやっている。
カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか (文春文庫)より

待遇もよく、命の保証もあった捕虜たちが手製の野球バットや食事用ナイフを手に、
なぜ死に場所を求めて脱走をしたのでしょう。


それは、暴動決行の12時間前に通告された、
「日本兵捕虜を下士官(かしかん)と兵に分離し、兵はほかの収容所に移転させる」
という命令が暴動のひきがねとなったと言われます。


下士官、兵の分離は、わが国家族制度の破壊にひとしい悲劇である。絶対分離移動には服従できず、断固として抗争するとの意見に決定した。さらに団長が最終的な交渉に行っているが、容れられないときは、戦死を前提とした突撃を決行する。但しこれは投票によって決める 。
カウラ出撃 (1972年) (太平洋戦争ノンフィクション) より



当時、日本国民の背後にあったのは軍国教育で
個より集団、権威の力を容認する文化を持ち続けてきました。

脱走に賛成か反対かは、小さく切ったトイレットペーパーに
「X(生)、○(死)」の多数決無記名投票で決められました。

結果、80%という圧倒的多数をもって暴動決行可決。

小島さんは「ばかなことをするもんだなあ」と、ひと言つぶやいて、キッチンへ行って一人で首を吊ったんです。オーストラリア人を殺すのもいやだ、殺されるのもいやだ、そう思っていたんでしょうね。カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか (文春文庫)より

出撃の一時間から三十分前、各班の病弱者、歩行不能者らが出撃可能者たちを前にして、
ロープの前に一列に並び、順番に「身を処置」していった。
カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか (文春文庫)より




1944年8月5日午前2時 「突撃ラッパ」を合図に、日本人捕虜集団脱走。
脱走前に、ハットに放火。

短時間にて大火災となり全焼
日本兵が「バンザイ!」と叫びながら死の突撃をしました。

ほとんど武器らしいものは持っていなく、殺されにいくような脱走でした。

「戦陣訓(せんじんくん)」


第八 名を惜しむ


 恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励して其の期待に
答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、
死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ。


その中で声のでかい奴がいて、お前らそれでも日本人かと言われたら、反対することができなくなったわけだね みんな。帝国軍人かお前らそれでもと言われたら、私は帝国軍人じゃないと言えないよね。私は命が惜しいなんて言えないもん。
(テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)



■ ブロードウェイ ■

ブロードウェイに侵入した一番大きなグループ約600名。
ここで67名が死亡したり瀕死の状態で身を横たえていた。
(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)


ここで南忠男も銃で撃たれ自決。

・・・ 現在のブロードウェイと監視塔 ・・・

 

溝に入り動けなくなり、びゅんびゅん弾が飛んでくるわけです。みんながそれに入って。
やっぱり生きたいという気持ちがあります。
(テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)



それぞれ200~300人のグループが4箇所から有刺鉄線へ暴走しました。


今井さんは進撃ラッパとともに真っ先に飛び出したそうです。


柵を超えてなぜ俺が打たれなかったかというと最初は威嚇射撃だったから。いったん死にそこなうとなかなかそんなことできない。やっぱり生きられれば生きたいんだよね。
(テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)


なんとか脱走できた日本兵たちは、誰一人として民間人を傷つけませんでした。


■ ワウグーラクリーク(Waugoola Creek) ■


奇妙なものです。それまでは死ぬことだけしか考えられませんでした。それ以外は頭になかったのです。でも農家が見えたとき、死ぬことを忘れてしまいました。
そのときに頭にあったのは、腹がすいたということだけだったのです。
この捕虜たちは、焼きたてのスコーンと紅茶をご馳走してもらった。
(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)


ワウグーラクリークには、スコーンと紅茶をふるまったウェアー夫人が住んでいた
“ローズデール”がある。


■ 日本人戦争墓地 ■

誰も手入れをしてくれなかった戦争直後荒れていた元敵の日本人墓地に
カウラの退役軍人会(RSL)カウラ支部の会員が、お墓の手入れをはじめました。

このことを知った日本政府は1964年、現在の日本人墓地を整備。
すぐ隣には、オーストラリア兵士のお墓。

南忠男 ここに眠る。

カウラの道は、桜の植樹が続いています。


■ 1978年カウラの財界人の提唱で日本庭園オープン ■
「回遊式庭園」

日本を代表する造園家として海外でも広く活躍した中島健さんが手がけています。


守護石と影向石の 石の形と位置があまりにも奇妙だったので
「神がカウラの人々の意思に呼応して、ここに授けたと考えるより外にない」と感じた。
(Blankets on the wire(鉄条網にかかる毛布)」 Steven Bullard より)


カウラ日本庭園と捕虜収容所跡を結ぶ一本の道は、桜アベニュー Sakura Avenueと呼ばれ、
カウラの桜は9月ごろが見ごろで、桜祭りというお祭りが毎年開催されます。

■ 平和の鐘 ■


カウラはオーストラリアにおいて世界平和の中心を歩んでいるんです。もし私たちが歩みを止めてしまったら歴史から何も学ばなかったことになる。(カウラ ビル・ウエスト市長)
(テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)
この町が日本とつながりがあるのはいいことですね。ずっと共有できる歴史を与えてくれます。
大切な財産ですね。(カウラ高校生)
(テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年より)


カウラに到着すると、日本人の私に町の人は「Hi!」と老いも若きも誰もが声を掛けてくるのです。会う人ほとんど全員!車に乗ってるおじさんもクラクション鳴らしてにこやかに挨拶してくる!(笑)偶然であった家族連れのおばあさんから、孫が日本語を勉強しています。聞いてあげてください(笑)とそのおばあさんが流暢な日本語で親しみを持って話しかけてくるのです。テレメンタリー2014  カウラ捕虜収容所 暴動70周年で答えていた高校生や市長のように、カウラ事件を教訓にして、ここから始まったと言える日豪親善、異国文化の理解や教育がなされ、これからの未来をしっかり後世に伝え続けていると思いました。 でも、九死に一生を得た命、南忠男(本名:豊島一)さん、死なないでほしかった。そして、生きていれば、またもっと違う形で友好を深めていたんじゃないかと考えてしまいます。



・・・ この暴動の翌年 ・・・

1945年(昭和20年)8月15日 昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送により、日本の降伏が国民に公表され、

終戦

1946年3月2日 大海丸(だいかいまる)大阪にて帰還。

 


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